三宅島大学誌

2011〜2013年度にかけて実施した「三宅島大学」プロジェクトをふり返ります。

「三宅島大学」をふり返る(1)

島の誘惑

「島に行きませんか?」というひと言で、プロジェクトが動きはじめた。東京都文化発信プロジェクト(以下文プロ)の森司さんから電話があったとき、どの島なのかを確かめることもなく「はい」と返事をしていた。他の参加者も、同じように「島に行きませんか?」というひと言が、かかわるきっかけになったようだ。島は、それほどに魅惑的である。その魅惑は、おそらくは、行ったことがない「未知」の場所であるということ、そして、多くの人が想い浮かべるであろう「青い空、青い海」というイメージによるものだ。だが同時に、「未知」の島は、畏れるべき場所でもある。日本全国を見渡せば、人口規模も面積も同じくらいの村は、他にいくつもあるはずだが、周りを大海原に囲まれた島への行路は、期待ばかりでなく、不安も抱かせる。

「三宅島大学」の成り立ちや具体的な実践について紹介は別の項に譲るが、プロジェクトとしては、わずか3年間(20112013年度)で終了した。すべてが順調だったわけではないし、思うように行かないこともたくさんあった。いまだに判然としないことも少なくない。だが、幸いにも「三宅島大学」が閉校してから、さらにもう1年、ふり返るための時間をいただいた。こうした事業は、年度末になって(やや慌ただしく)「報告書」をまとめ、それで「終わり」になることが多い。ひととおり成果をまとめると、その反動で開放された気持ちになって、ゆっくりと活動を反芻して、意味づけをおこなうことはあまりない。あたらしいプロジェクトがはじまると、不思議なほど簡単に熱が冷めてしまうのだ。地域コミュニティに根づくことを目指しているプロジェクトであっても、年度の節目や資金面での方針変更によって、いとも簡単に土壌が一新される。

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この1年は、島に出かける機会がなくなり、ある種の「欠乏感」とともに過ごした。「三宅島大学」での活動を経て、私の日常のリズムに、島にいる時間が少しずつ刻まれるようになっていたことを再確認した。だが、その「欠乏感」のおかげで、少し距離をおいて「三宅島大学」プロジェクトそのものについて考えることができるようになった。また、伊豆諸島(あるいはもう少し限定して、伊豆七島)には、いくつもの島があるにもかかわらず、「三宅島大学」の開校期間中に、他の島を訪れることはなかった。森さんの勧めもあって、20147月には、八丈島や大島を巡る旅をした。大急ぎではあったものの、他の島をじぶんの目で見ることによって、三宅島を相対化して語るためのヒントを得たと思う。

ふだんよりも時間をかけてふり返ること。そして、他の島々をふくめたもう少し広い範囲で位置づけてみること。「三宅島大学誌」プロジェクトは、3年間の実践をもう一度とらえなおし、「三宅島大学」とは何だったのか、さらに広い文脈で「アートプロジェクト」という活動そのものについて考える試みである。

 

「アートプロジェクト」という方法

「三宅島大学」は、三宅島大学プロジェクト実行委員会と東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)の共催のもと、「東京アートポイント計画」(東京文化発信プロジェクト室における拠点形成事業)のアートプロジェクトとして展開した。

近年、アートプロジェクトによる地域活性化の試みが、注目を集めるようになった。もちろん、試みとしてはしばらく前からあったが、とくにここ数年は際立っているようだ。まさに「地域創生」という文脈で語られることも少なくないはずだ。たしかに「アートプロジェクトによる地域活性化」という響きも魅惑的だが、このことばは、その意味するところをよく考えて慎重につかいたい。「アートプロジェクト」も「地域活性化」も、日常的につかわれることばになりつつある。そして、その日常性こそが、情報共有やコミュニケーションを難しくしているのだ。さまざまな形で「アートプロジェクト」や「地域活性化」が理解され、語られているということに着目するためには、コミュニケーション論からのアプローチが有用である。「アートプロジェクト」や「地域活性化」の評価に関わる問題は、私たちのコミュニケーション観に照らして考えることができるからである。

コミュニケーション論においては、送り手から受け手へのメッセージの「伝達」としてコミュニケーションを理解しようと試みることが多い。その場合、私たちのコミュニケーションは、メッセージが「伝達されたかどうか」という「成果(結果)」で評価されることになる。いっぽう、コミュニケーションという絶え間ない過程に着目するならば、「意味づけ」という側面が際立つ。まさに、〈そのとき・その場〉の状況を熟知しようという試みこそが、コミュニケーションの本質だという考え方である。

「アートプロジェクト」や「地域活性化」は、その過程が大切だと言われながらも、(最終的には)わかりやすい「成果(結果)」で評価されることが少なくない。あえて単純化するならば、「アートプロジェクト」という方法が、「地域活性化」という「成果(結果)」をもたらすかどうかという議論である。本論は、「意味づけ」の過程としてコミュニケーションを理解する立場から、「アートプロジェクト」や「地域活性化」をめぐる議論を整理したいと考えている。人と出会い、かかわり合いながらつくられる場所での体験は、つねに個別的で、私たちの身体や現場に消えゆく性質のものである。その一つひとつのエピソードの具体性に向き合いながら、「三宅島大学」というプロジェクトの輪郭を描いてみたい。

「三宅島大学誌」プロジェクトでは、着想・準備から開校、実践を経て閉校にいたるまでの過程を記述することを重視している。その一環で、3年間の記録を集約する「デジタルアーカイブ」をつくる作業も進行中である。まずは、写真や動画、文書などもふくめ、プロジェクトがすすむ過程で生み出されたさまざまな記録を収集・蓄積している。なかには、デジタル技術のおかげで不可避的に残されていく記録もある。こうした多様なデータにキーワードを付与し(タグ付けし)、検索や分類、並べ替えなどが容易な仕組みをつくろうとしている。いうまでもなく、こうした記録を束ねた「アーカイブ(=所蔵庫)」としての役割は無視できない。だが、データの格納を終えても、この「所蔵庫」の扉を開けておくつもりで「アーカイブ」そのものを整備している。日常的にこの記録の束にアクセスし、「三宅島大学」についてのコミュニケーションが、ささやかながらも継続していくための方法や、私たちの態度について考えることが重要だと理解しているからである。

(つづく)

三宅島を知る

三宅島大学」の開校に向けて

リサーチ02|2011年8月6日(土)〜9日(火)

 

いま「三宅島大学誌」プロジェクト(2014年度)の一環として、3年間のふり返りをはじめている。前回の記事(「はじめての三宅島」)のなかで「…17回島に渡った。」と書いたが、その後、16回であることがわかった。そして、そのなかに今年の夏に実施した「三島(さんとう)リサーチ」がふくまれているので、「三宅島大学」プロジェクトの期間中(〜2013年3月)には、15回島に渡った…というのが正しいようだ(今後も、必要に応じて修正)。

2回目のリサーチは、三宅島で2年に一度おこなわれる「富賀神社大祭」の日程に合わせて計画された。今回は、このお祭りを見るだけではなく、「三宅島大学」の開校に向けて、会場等の下見(ロケハン)をおこなうことになっていた。

7日:まずは、開校式の会場候補となっている錆が浜港の船客待合所(船待ち:せんまち)の界隈を下見した。船待ちの脇にある駐車場は、上手に設営すれば、海を背にしながら開校式を開くことができる(きっと「絵になる」はずだ)。また、キックオフ・レクチャーは、船待ちの建物がよいだろうという話になった(くわえて、雨天のことも話題になっていたと記憶している)。まだまだ決めるべきことはたくさんあったが、実際に現場を見ながら想像すると、少しずつ「三宅島大学」が現実的になっていくような感じがした。6月のリサーチは梅雨空だったが、今回は快晴。まだ見ていなかった、三宅島の空と海に気分が高揚した。

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そのあとは、「富賀神社大祭」を見に行った。「富賀神社大祭」は、1週間ほどかけて島の5つの地区を(阿古、伊ヶ谷、伊豆、神着、坪田という順で時計回りに)神輿が巡回していくというものだ。地区と地区のあいだで、神輿が受け渡される場面が見どころで、それぞれの地区の人びとの気性や、「お隣り」の地区との関係が表れるようだ。この日(おそらく4日目)は、伊豆から神着への受け渡しの場面を見ることができた。受け渡されると、神輿は翌朝まで御旅所でひと休み。そしてまた、次の受け渡しの場所まではこばれる。

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8日:翌日は役場のそばの体育館(雨天の際の会場候補)を下見してから、神着から坪田への受け渡しを見に行った。きょうもよく晴れて、暑い。島の歴史や文化に触れるという意味で、「富賀神社大祭」はとても興味ぶかいものだった。

観光客や(お祭りに合わせて)里帰りをしていた人もいたとは思うが、沿道は賑やかだった。昔に比べると「…ずいぶんおとなしくなった」と沿道にいたお年寄りが口にしていた。島の人口がいまよりも多かった時代には、もっともっと華やかな祭事だったのかもしれない。2000年の噴火(そして全島避難)をはさんで、三宅島の人口は、この30年間でおよそ3分の2に減少している(1985年:4167人 → 2014年推計:2575人)。

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9日:最終日には船を仕立てて、海から三宅島を眺めてみることになった。前回は、島内の外周道路をバスで一周し、三宅島が山手線とほぼ同じサイズだということを体感した。こんどは、もうひと周り外側から、島を見るということだ。錆が浜の漁港から船に乗り、神輿と同じように、時計回りで島の外周を巡った。島の外周道路(都道212号線)の、さらに外側にも道があり、家(いま人が住んでいるかどうかはわからない)もちらほら見えた。5つの集落のサイズや地形も、海側から見ることで、はじめて気づくことがたくさんあった。ところどころにこげ茶色の岩肌が露出し、「火山の島」としての成り立ちを感じることができた。

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前回は、藝大チームのメンバーとともに島に散らばり、さまざまな「地域資源」をさがすというアプローチ方法だったので、「調査者」としての側面が際立った。2度目の三宅島では、さらに島のことを理解するとともに、「三宅島大学」の仕組みを設計するための手がかりをさがすことが求められていた。実際に、今回は「デザイナー」のチームも一緒だった。このあと、開校式(この時点で、開校式は9月19日に決まっていた)に向けて、「三宅島大学」のキービジュアルが決まり、パンフレットやウェブがつくられることになる。

慌ただしかったが、少しずつ、三宅島の姿がかたどられてきた。今回も、(前回と同様)「視察」の感覚が強かったように思う。お祭りの見物も、一連のロケハンも、ずっと役場の担当者(当時)と一緒だった。のちに、もう少しくわしく書くことになると思うが、このときは、まだ活動の拠点がなかった。民宿に泊まり、役場の手配で移動する。もちろん、地域での活動は、そうやってはじまることが多い。適切な「入口」が必要だし、焦らずにすすめたほうがいい。だが、人との関わりをつくっていくためには、ぼくたちの「自立」が必要だった。

はじめての三宅島

3年前をふり返る

リサーチ01|2011年6月17日(金)〜22日(水)

 

2011年6月、「三宅島大学」プロジェクトがはじまった。それから2014年3月まで、ぼくは、17回島に渡った。最初に島に行ってから3年以上経ったいま、こうしてふり返りの文章を書いている。「三宅島大学」プロジェクトの記録は、いろいろある。たとえば、加藤研の学生たちが主体となって『あしたばん』というかわら版を発行してきた(2011年6月から2014年3月までに50回発行)。加えて、「三宅島大学」マネージャーのブログ、日常的なつぶやき(ツイッター)、ポスターやビデオクリップなど、三宅島での体験は、さまざまな形で記録に残されている。もちろん、写真もたくさん撮った。冊子も何冊かつくった。

だが、それぞれの場面では、目の前にある活動をすすめるだけで大忙しだったので、全体の流れのなかで位置づける余裕はそれほどなかった。だから、ひとつ一つの記録は、ちいさなピースのままだ。そのいくつもの細片をつなぎ合わせて、ひと筋の「ものがたり」をつくるのが「三宅島大学誌」というプロジェクトだ。

写真のアーカイブづくりは、すでにはじまっている。関係者と再会して、当時のことを語る時間もつくるつもりだ。この文章も、その一環として綴っている。少しずつ、ピースを並べながら、「三宅島大学誌」をまとめようと思う。まずは、はじめて三宅島に行ったときのことから。

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最初の「三宅島リサーチ」の参加者名簿(参加者名簿が整ったのは5月31日)を見ると、日比野研究室チームが16名、加藤研究室チームが9名となっている。これに、文プロ(東京文化発信プロジェクト)のメンバーをくわえると30名近くになる。この大所帯で三宅島に渡り、一週間近く滞在することになったのだ。

ぼくは、緊張していた。いまふり返ると、おそらく3つの理由からだと思う。まずは、「東日本大震災」のわずか3か月後だったということ。3月11日以降、しばらくは落ちつかなかった。年度末の慌ただしさはあったが、いつもとはちがう心もちで過ごしていた。積極的にプロジェクトに向き合うというよりは、何かをしていないと落ちつかない感じだった。だから、「三宅島大学」の話を聞いたときには、迷わず参加を決めていた。*1

そして、はじめて訪れる場所だということ。船で6時間半という旅程はもちろんのこと、ふだんのフィールドワークとは、ずいぶん事情がちがう。もちろん、遠い「異国」に行くわけではないが、「島」から連想するさまざまなイメージだけではふじゅうぶんだった。

さらに、(これはプロジェクトそのものとはあまり関係ないかもしれないが)日比野さんチームとともに出かけることも、緊張の理由になっていたように思う。このメンバーで一緒に過ごして、何が(何かが)起きるのか。純粋に楽しみだった部分もあるが、同時に、その環境のなかで加藤研の学生たちがどのような刺激を受けるのか、どのようにふるまうのか。不安はなかったものの、緊張感があった。

のちに、「三宅島大学」は活動拠点を持つようになるのだが、今回の逗留は民宿だった。ひと言でいうと、今回の「リサーチ」は、日比野研、加藤研、それぞれが三宅島を巡り(というより、島に放たれる感じだろうか)、滞在期間中に「何か」を発見することがミッションだった。最終日には、簡単なプレゼンテーションもおこなわれることになっていた。

発見のための 「方法」は、たくさんある。ぼくたちは、取材すること・記録することをつうじて三宅島との〈接点〉をさがすことにした。具体的には、かわら版とビデオだ。『あしたばん』の記念すべき創刊号は、6月19日の昼に発行された。民宿のテーブルを囲んで、あるいは錆が浜の近くのテントで。早めに滞在を切り上げることになっていた学生は、帰りの船のなかで原稿を書いた。しばらく前から「移動編集室」のような実験をはじめていたので、ノートPCを持ち歩き、島を移動しながらでも、場所(と電源)さえ見つかれば原稿を書いて、紙面にまとめていくことができた。全旅程を終え、島から戻って発行するのではなく、滞在中に発行し、配るというやり方を試みた。けっきょく、最終日までに『あしたばん』を6回(号外をふくむ)発行することができた。

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『あしたばん』創刊号(2011年6月19日)http://ashitaban.net/

ビデオは、出発前のミーティングからプレゼンテーション(の冒頭部分)までを滞在中に編集し、最終日のプレゼンテーションで上映した。(島を離れるシーンだけ、戻ってから加えてビデオを完成させた。)

(撮影・編集:新飼麻友)

ぼくは、この滞在中に「三宅島大学」のコンセプトを考えていた。やはり、イメージだけでは、ことばは浮かばない。短い滞在ではあったが、じぶんの足で三宅島を歩いたことで、いよいよプロジェクトがはじまることを実感していた。「三宅島大学」を、どのように語ってゆけばいいのだろう。

帰りの船が港を離れ、握っていた紙テープがちぎれたとき、緊張の糸も切れたのかもしれない。じつは、出かける前からの緊張は、最後の日まで続いていた。島影がちいさくなるのを見ながら、密度の濃い数日間のことで頭がいっぱいになった。

一週間ほど経ってから、ぼくは、このリサーチを思い出しながら「船旅」というタイトルの短い文章を書いた。

6月の中旬。縁あって、島に出かけることになった。船は、夜の10時半頃に竹芝桟橋を離れ、翌朝、到着する。

「島時間」などと聞くと、おそらく、ノンビリとした時間の流れを想像するにちがいない。ゆっくりとマイペース。たしかに大らかな雰囲気はあるが、じつは「島時間」は、想っているよりも厳しいものだ。山手線なら、駆け込むのに失敗しても、数分も経たないうちに次の電車がやって来る。島の外周は、ちょうど山手線とおなじくらいの距離だが、路線バスで移動するときは、2時間に1本というダイヤを頭に入れておかなければならない。つまり、きちんとプランを立てておく必要があるのだ。

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民宿のリズムもそうだ。宿泊客を乗せた船は、朝5時に港に入る。客たちを迎えに行くために、民宿のじぃは、早めに灯りを消して寝るのだ。島の生活は、とても規則正しい。だが、ぼくたちは、そのリズムを誤解していた。というより、ずいぶん甘えていた。周到な準備と段取りによって刻まれている「島時間」を、少し乱してしまった。

出発の前夜、民宿のじぃが、ちいさな小屋に招いてくれた。説教というわけでもなく、淡々と、島での暮らしについて語った。炭火の上で、イカを炙って、ビールを飲んだ。じぃは「ごめんな」と言った。日焼けした頑丈でぶ厚い手を出して、一人ひとりの手をぎゅっと握った。そして「ありがとうな」と言った。明日は、晴れたら漁に出るから、見送りはできないかもしれない、と何度もくり返した。

雨続きだったが、出発の日は、朝から青空になった。港に着くと、たくさんの紙テープを携えたじぃが、ぼくたちを待っていた。「ごめんなさい」と「ありがとう」は、じつは、ぼくたちから言うべきことばだった。船が桟橋を離れ、あっという間に色とりどりのテープは風に吸い込まれ、じぃの姿がちいさくなった。

フィールドワークをとおして学ぶことはたくさんあるが、多くの事柄は、後になってから実感するのではないかと思う。じつは、現場で(まさにその時・その場で)何かに気づいていることは、あまりないのだ。「気づき」は、現場ではなく、後から得る。だからこそ、できるだけ直接的に現場を感じておく必要がある。

ドタバタと5日間を過ごし、かわら版やビデオは形になった。コンセプトづくりに役立ちそうな手がかりも得た。だが、ぼくは、なんともいえない後悔や自責の心もちだった。けっきょく、またひとつ「調査されるという迷惑」をつくり出しただけではないのか。*2 このプロジェクトに、どう向き合ってゆけばよいのか。まだまだ、これから考えなければならないことがたくさんある。そう思った。

ぼくは「島」のことをほとんどわかっていなかった。もちろん、現場との関わり方については、いつも注意しているつもりだが、大きな「調査被害」の一因になってしまったのかもしれない。騒がしい「よそ者たち」が、ガヤガヤと過ごして島を離れる。それだけのことだったのではないのか。最後の日は晴れたが、なぜだか灰色のぶ厚い雲の風景ばかりが頭に残っていて、ちょっと気が重くなった。

*1:べつの機会に触れるつもりだが、最初は「島のプロジェクト」くらいの情報だけで、行き先が三宅島であることは知らないまま、引き受けていた。

*2:宮本常一・安渓遊地, 2008