三宅島大学誌

2011〜2013年度にかけて実施した「三宅島大学」プロジェクトをふり返ります。

はじめての三宅島

3年前をふり返る

リサーチ01|2011年6月17日(金)〜22日(水)

 

2011年6月、「三宅島大学」プロジェクトがはじまった。それから2014年3月まで、ぼくは、17回島に渡った。最初に島に行ってから3年以上経ったいま、こうしてふり返りの文章を書いている。「三宅島大学」プロジェクトの記録は、いろいろある。たとえば、加藤研の学生たちが主体となって『あしたばん』というかわら版を発行してきた(2011年6月から2014年3月までに50回発行)。加えて、「三宅島大学」マネージャーのブログ、日常的なつぶやき(ツイッター)、ポスターやビデオクリップなど、三宅島での体験は、さまざまな形で記録に残されている。もちろん、写真もたくさん撮った。冊子も何冊かつくった。

だが、それぞれの場面では、目の前にある活動をすすめるだけで大忙しだったので、全体の流れのなかで位置づける余裕はそれほどなかった。だから、ひとつ一つの記録は、ちいさなピースのままだ。そのいくつもの細片をつなぎ合わせて、ひと筋の「ものがたり」をつくるのが「三宅島大学誌」というプロジェクトだ。

写真のアーカイブづくりは、すでにはじまっている。関係者と再会して、当時のことを語る時間もつくるつもりだ。この文章も、その一環として綴っている。少しずつ、ピースを並べながら、「三宅島大学誌」をまとめようと思う。まずは、はじめて三宅島に行ったときのことから。

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最初の「三宅島リサーチ」の参加者名簿(参加者名簿が整ったのは5月31日)を見ると、日比野研究室チームが16名、加藤研究室チームが9名となっている。これに、文プロ(東京文化発信プロジェクト)のメンバーをくわえると30名近くになる。この大所帯で三宅島に渡り、一週間近く滞在することになったのだ。

ぼくは、緊張していた。いまふり返ると、おそらく3つの理由からだと思う。まずは、「東日本大震災」のわずか3か月後だったということ。3月11日以降、しばらくは落ちつかなかった。年度末の慌ただしさはあったが、いつもとはちがう心もちで過ごしていた。積極的にプロジェクトに向き合うというよりは、何かをしていないと落ちつかない感じだった。だから、「三宅島大学」の話を聞いたときには、迷わず参加を決めていた。*1

そして、はじめて訪れる場所だということ。船で6時間半という旅程はもちろんのこと、ふだんのフィールドワークとは、ずいぶん事情がちがう。もちろん、遠い「異国」に行くわけではないが、「島」から連想するさまざまなイメージだけではふじゅうぶんだった。

さらに、(これはプロジェクトそのものとはあまり関係ないかもしれないが)日比野さんチームとともに出かけることも、緊張の理由になっていたように思う。このメンバーで一緒に過ごして、何が(何かが)起きるのか。純粋に楽しみだった部分もあるが、同時に、その環境のなかで加藤研の学生たちがどのような刺激を受けるのか、どのようにふるまうのか。不安はなかったものの、緊張感があった。

のちに、「三宅島大学」は活動拠点を持つようになるのだが、今回の逗留は民宿だった。ひと言でいうと、今回の「リサーチ」は、日比野研、加藤研、それぞれが三宅島を巡り(というより、島に放たれる感じだろうか)、滞在期間中に「何か」を発見することがミッションだった。最終日には、簡単なプレゼンテーションもおこなわれることになっていた。

発見のための 「方法」は、たくさんある。ぼくたちは、取材すること・記録することをつうじて三宅島との〈接点〉をさがすことにした。具体的には、かわら版とビデオだ。『あしたばん』の記念すべき創刊号は、6月19日の昼に発行された。民宿のテーブルを囲んで、あるいは錆が浜の近くのテントで。早めに滞在を切り上げることになっていた学生は、帰りの船のなかで原稿を書いた。しばらく前から「移動編集室」のような実験をはじめていたので、ノートPCを持ち歩き、島を移動しながらでも、場所(と電源)さえ見つかれば原稿を書いて、紙面にまとめていくことができた。全旅程を終え、島から戻って発行するのではなく、滞在中に発行し、配るというやり方を試みた。けっきょく、最終日までに『あしたばん』を6回(号外をふくむ)発行することができた。

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『あしたばん』創刊号(2011年6月19日)http://ashitaban.net/

ビデオは、出発前のミーティングからプレゼンテーション(の冒頭部分)までを滞在中に編集し、最終日のプレゼンテーションで上映した。(島を離れるシーンだけ、戻ってから加えてビデオを完成させた。)

(撮影・編集:新飼麻友)

ぼくは、この滞在中に「三宅島大学」のコンセプトを考えていた。やはり、イメージだけでは、ことばは浮かばない。短い滞在ではあったが、じぶんの足で三宅島を歩いたことで、いよいよプロジェクトがはじまることを実感していた。「三宅島大学」を、どのように語ってゆけばいいのだろう。

帰りの船が港を離れ、握っていた紙テープがちぎれたとき、緊張の糸も切れたのかもしれない。じつは、出かける前からの緊張は、最後の日まで続いていた。島影がちいさくなるのを見ながら、密度の濃い数日間のことで頭がいっぱいになった。

一週間ほど経ってから、ぼくは、このリサーチを思い出しながら「船旅」というタイトルの短い文章を書いた。

6月の中旬。縁あって、島に出かけることになった。船は、夜の10時半頃に竹芝桟橋を離れ、翌朝、到着する。

「島時間」などと聞くと、おそらく、ノンビリとした時間の流れを想像するにちがいない。ゆっくりとマイペース。たしかに大らかな雰囲気はあるが、じつは「島時間」は、想っているよりも厳しいものだ。山手線なら、駆け込むのに失敗しても、数分も経たないうちに次の電車がやって来る。島の外周は、ちょうど山手線とおなじくらいの距離だが、路線バスで移動するときは、2時間に1本というダイヤを頭に入れておかなければならない。つまり、きちんとプランを立てておく必要があるのだ。

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民宿のリズムもそうだ。宿泊客を乗せた船は、朝5時に港に入る。客たちを迎えに行くために、民宿のじぃは、早めに灯りを消して寝るのだ。島の生活は、とても規則正しい。だが、ぼくたちは、そのリズムを誤解していた。というより、ずいぶん甘えていた。周到な準備と段取りによって刻まれている「島時間」を、少し乱してしまった。

出発の前夜、民宿のじぃが、ちいさな小屋に招いてくれた。説教というわけでもなく、淡々と、島での暮らしについて語った。炭火の上で、イカを炙って、ビールを飲んだ。じぃは「ごめんな」と言った。日焼けした頑丈でぶ厚い手を出して、一人ひとりの手をぎゅっと握った。そして「ありがとうな」と言った。明日は、晴れたら漁に出るから、見送りはできないかもしれない、と何度もくり返した。

雨続きだったが、出発の日は、朝から青空になった。港に着くと、たくさんの紙テープを携えたじぃが、ぼくたちを待っていた。「ごめんなさい」と「ありがとう」は、じつは、ぼくたちから言うべきことばだった。船が桟橋を離れ、あっという間に色とりどりのテープは風に吸い込まれ、じぃの姿がちいさくなった。

フィールドワークをとおして学ぶことはたくさんあるが、多くの事柄は、後になってから実感するのではないかと思う。じつは、現場で(まさにその時・その場で)何かに気づいていることは、あまりないのだ。「気づき」は、現場ではなく、後から得る。だからこそ、できるだけ直接的に現場を感じておく必要がある。

ドタバタと5日間を過ごし、かわら版やビデオは形になった。コンセプトづくりに役立ちそうな手がかりも得た。だが、ぼくは、なんともいえない後悔や自責の心もちだった。けっきょく、またひとつ「調査されるという迷惑」をつくり出しただけではないのか。*2 このプロジェクトに、どう向き合ってゆけばよいのか。まだまだ、これから考えなければならないことがたくさんある。そう思った。

ぼくは「島」のことをほとんどわかっていなかった。もちろん、現場との関わり方については、いつも注意しているつもりだが、大きな「調査被害」の一因になってしまったのかもしれない。騒がしい「よそ者たち」が、ガヤガヤと過ごして島を離れる。それだけのことだったのではないのか。最後の日は晴れたが、なぜだか灰色のぶ厚い雲の風景ばかりが頭に残っていて、ちょっと気が重くなった。

*1:べつの機会に触れるつもりだが、最初は「島のプロジェクト」くらいの情報だけで、行き先が三宅島であることは知らないまま、引き受けていた。

*2:宮本常一・安渓遊地, 2008