拠点の重要性
『アートプロジェクト:芸術と共創する社会』(2014)の冒頭に、「アートプロジェクトとは」というページがある。たとえば、「制作のプロセスを重視し、積極的に開示」すること、「プロジェクトが実施される場やその社会的状況に応じた活動を行う、社会的な文脈としてのサイト・スペシフィック」であることなどが、1990年代以降に展開されてきた「アートプロジェクト」の特徴として挙げられている。
すでに述べたとおり、「三宅島大学」は「調査・研究」「講座・行事」「環境・設備」という3つの活動領域によって構成されていた。「アートプロジェクト」という方法で、将来的に三宅島の「資産」としての価値を生み出しうる、さまざまな「資源」について探究する試みであった。島全体が「大学」に見立てられていたものの、現実的にも象徴的にも「校舎」の存在は重要である。現場の文脈を考えながら、積極的にプロセスをオープンにする(オープンにし続ける)ための「場所」が必要だった。
「三宅島大学」の前身である「墨東大学(ぼくとうだいがく)」も、ささやかながら拠点を持っていた。墨田区京島のキラキラ橘商店街にある空き店舗が、「墨東大学 京島校舎」と呼ばれ、さまざまな講座のための教室として、さらには卒業式や卒業制作展のための会場として利用された。「プロセスを重視する」ということでは、引っ越しや壁のペンキ塗りといった拠点整備の活動自体も、「講座」として提供した。
「三宅島大学」プロジェクトでは、最初の数回は民宿を利用した。私たちも不勉強だったのだが、島のリズムは、船の往来と密接に連動している。明け方5時に船が着き、午後2時に船が出る。これが基本になって、島の活動が組み立てられている。「島時間」ということばから連想しがちな、のびやかな時間感覚というよりは、むしろ規則的だと言ったほうがいい。私たちが常識的だと思っている時間の使い方は、通用しない。私たちは、つい宵っ張りな過ごし方を求めてしまうのだが、早寝早起きが基本だ。その理解不足で、民宿にはいささか迷惑なふるまいをしてしまった。
いずれにせよ、「三宅島大学」の拠点として、民宿を使い続けるわけにはいかない。数回のリサーチを経た後、伊豆地区にある「伊豆避難施設」を利用できるよう調整が行われ、初年度(2011年度)は、この避難施設が「三宅島大学」の活動拠点となった。「避難施設」であるから、民宿よりも柔軟に使うことができる。ただ、実際に講座や行事は、「アカコッコ館(三宅島自然ふれあいセンター)」や「三宅村公民館」など、他の会場を利用する必要があり、そのつど「三宅島大学」の事務局機能も移動することになった。
三宅島大学 本校舎(左:2012年8月 右:2013年8月)
2年目(2012年度)からは、阿古地区にある「御蔵島会館」を「三宅島大学 本校舎」として活用できるようになった。錆が浜港から徒歩5分程度という好立地で、近所には観光協会や商店もある。くわえて、村役場へのアクセスも良い。宿泊や自炊のための設備は、私たちの滞在中の自由度を格段に高めてくれた。広間には天井まで届く黒板が設置され、教室らしい雰囲気になった。「三宅島大学」と書かれた看板ができて、ようやく「居場所」ができた。少しずつではあったが、「本校舎」を拠点に「三宅島大学」における活動のスタイルがつくられていった。
コミュニケーションが「場所」をつくる
「三宅島大学」をひとつの生態系として考えるとするならば、それを構成するのは教室や校舎といった有形のモノだけではない。言うまでもなく、さまざまな無形のコトも有機的に結びつくことによって「全体」がかたどられていく。「三宅島大学」プロジェクトにとって重要なのは、空間としての拠点ができたことだけではなく、「マネージャー」が常駐するようになったという点である。たとえば教室という空間は、コミュニケーションをとおして息づく。人びとが集い、自由闊達に語らうことによって、「居心地のいい場所(グッド・プレイス)」ができる。
2012年の夏以降、「三宅島大学 本校舎」に「マネージャー」が暮らすようになり、(大学をめぐる)生態系は、広がりを持ちはじめるとともに、安定していった。「マネージャー」は、村役場との調整をしながら講座や行事の運営をサポートする「事務局」であり、逗留するアーティストや関係者を迎える「おかみさん」であり、同時に村の人びとに「三宅島大学」の活動内容を伝える「広報担当」のような存在であった。
「三宅島大学」を構想した際に整理したコンセプトのひとつが、「コミュニケーションを誘発するしくみ」としての「三宅島大学」というものであった。これは、「アートプロジェクト」の評価にもかかわるが、私たちは、「三宅島大学」の意味や意義は、人びとのコミュニケーションに表れるという考えに依拠しながら「全体」をデザインした。人びとの日常会話のなかに、「三宅島大学」や大学生活にかかわることばが表れるときにこそ、「三宅島大学」の存在が認知されたと考えることができるからだ。
2011年の「開校式」以降、さまざまな場面で、「三宅島大学」が(内容の詳細はともかく、その名前程度は)、村の人びとに知られているということがわかった。とくに2012年夏に実施した「キッズリサーチ」をとおして、子供たちのコミュニケーションのなかに「三宅島大学」の存在を実感することができた。当初は、「三宅島大学」を略して「三宅大(みやけだい)」という呼称が流通するのではないかと期待していたが、子供たちは、「三大(さんだい)」と口にするようになった。また、子供たちは何気なく「大学に行ってくる…」と言って家を出ていたと聞く。
「キッズリサーチ」に参加していた子供たちにとって、「三宅島大学」が「本物」であるかどうかは、問題ではない。コミュニケーションを誘発するしくみとして、その本質が「真正」であるということが大切だ。「三宅島大学 本校舎」は、プロジェクトのためにあたえられた呼称だったが、「大学」として語り、足をはこぶことで、子供たちも「アートプロジェクト」の参与者になっていたのである。
(つづく)