三宅島大学誌

2011〜2013年度にかけて実施した「三宅島大学」プロジェクトをふり返ります。

三宅島を知る

三宅島大学」の開校に向けて

リサーチ02|2011年8月6日(土)〜9日(火)

 

いま「三宅島大学誌」プロジェクト(2014年度)の一環として、3年間のふり返りをはじめている。前回の記事(「はじめての三宅島」)のなかで「…17回島に渡った。」と書いたが、その後、16回であることがわかった。そして、そのなかに今年の夏に実施した「三島(さんとう)リサーチ」がふくまれているので、「三宅島大学」プロジェクトの期間中(〜2013年3月)には、15回島に渡った…というのが正しいようだ(今後も、必要に応じて修正)。

2回目のリサーチは、三宅島で2年に一度おこなわれる「富賀神社大祭」の日程に合わせて計画された。今回は、このお祭りを見るだけではなく、「三宅島大学」の開校に向けて、会場等の下見(ロケハン)をおこなうことになっていた。

7日:まずは、開校式の会場候補となっている錆が浜港の船客待合所(船待ち:せんまち)の界隈を下見した。船待ちの脇にある駐車場は、上手に設営すれば、海を背にしながら開校式を開くことができる(きっと「絵になる」はずだ)。また、キックオフ・レクチャーは、船待ちの建物がよいだろうという話になった(くわえて、雨天のことも話題になっていたと記憶している)。まだまだ決めるべきことはたくさんあったが、実際に現場を見ながら想像すると、少しずつ「三宅島大学」が現実的になっていくような感じがした。6月のリサーチは梅雨空だったが、今回は快晴。まだ見ていなかった、三宅島の空と海に気分が高揚した。

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そのあとは、「富賀神社大祭」を見に行った。「富賀神社大祭」は、1週間ほどかけて島の5つの地区を(阿古、伊ヶ谷、伊豆、神着、坪田という順で時計回りに)神輿が巡回していくというものだ。地区と地区のあいだで、神輿が受け渡される場面が見どころで、それぞれの地区の人びとの気性や、「お隣り」の地区との関係が表れるようだ。この日(おそらく4日目)は、伊豆から神着への受け渡しの場面を見ることができた。受け渡されると、神輿は翌朝まで御旅所でひと休み。そしてまた、次の受け渡しの場所まではこばれる。

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8日:翌日は役場のそばの体育館(雨天の際の会場候補)を下見してから、神着から坪田への受け渡しを見に行った。きょうもよく晴れて、暑い。島の歴史や文化に触れるという意味で、「富賀神社大祭」はとても興味ぶかいものだった。

観光客や(お祭りに合わせて)里帰りをしていた人もいたとは思うが、沿道は賑やかだった。昔に比べると「…ずいぶんおとなしくなった」と沿道にいたお年寄りが口にしていた。島の人口がいまよりも多かった時代には、もっともっと華やかな祭事だったのかもしれない。2000年の噴火(そして全島避難)をはさんで、三宅島の人口は、この30年間でおよそ3分の2に減少している(1985年:4167人 → 2014年推計:2575人)。

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9日:最終日には船を仕立てて、海から三宅島を眺めてみることになった。前回は、島内の外周道路をバスで一周し、三宅島が山手線とほぼ同じサイズだということを体感した。こんどは、もうひと周り外側から、島を見るということだ。錆が浜の漁港から船に乗り、神輿と同じように、時計回りで島の外周を巡った。島の外周道路(都道212号線)の、さらに外側にも道があり、家(いま人が住んでいるかどうかはわからない)もちらほら見えた。5つの集落のサイズや地形も、海側から見ることで、はじめて気づくことがたくさんあった。ところどころにこげ茶色の岩肌が露出し、「火山の島」としての成り立ちを感じることができた。

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前回は、藝大チームのメンバーとともに島に散らばり、さまざまな「地域資源」をさがすというアプローチ方法だったので、「調査者」としての側面が際立った。2度目の三宅島では、さらに島のことを理解するとともに、「三宅島大学」の仕組みを設計するための手がかりをさがすことが求められていた。実際に、今回は「デザイナー」のチームも一緒だった。このあと、開校式(この時点で、開校式は9月19日に決まっていた)に向けて、「三宅島大学」のキービジュアルが決まり、パンフレットやウェブがつくられることになる。

慌ただしかったが、少しずつ、三宅島の姿がかたどられてきた。今回も、(前回と同様)「視察」の感覚が強かったように思う。お祭りの見物も、一連のロケハンも、ずっと役場の担当者(当時)と一緒だった。のちに、もう少しくわしく書くことになると思うが、このときは、まだ活動の拠点がなかった。民宿に泊まり、役場の手配で移動する。もちろん、地域での活動は、そうやってはじまることが多い。適切な「入口」が必要だし、焦らずにすすめたほうがいい。だが、人との関わりをつくっていくためには、ぼくたちの「自立」が必要だった。