三宅島大学誌

2011〜2013年度にかけて実施した「三宅島大学」プロジェクトをふり返ります。

「三宅島大学」をふり返る(4)

三宅島の「資産」をマッピングする

あらたな「大学」を(実験的に)つくろうというとき、そもそも「大学とは何か」という問いかけが必要になる。「大学」について考えるとき、ギルバート・ライルの『心の概念』の冒頭の一節を思い出す。少し長くなるが、引用しよう。

オックスフォード大学やケンブリッジ大学を初めて訪れる外国人は、まず多くのカレッジ、図書館、運動場、博物館、各学部、事務局などに案内されるであろう。そこでその外国人は次のように尋ねる。「しかし、大学はいったいどこにあるのですか。私はカレッジのメンバーがどこに住み、事務職員がどこで仕事をし、科学者がどこで実験をしているかなどについては見せていただきました。しかし、あなたの大学のメンバーが居住し、仕事をしている大学そのものはまだ見せていただいておりません。」この訪問者に対しては、この場合、大学とは彼が見てきたカレッジや実験室や部局などと同類の別個の建物であるのではない、ということを説明しなければならない。まさに彼がすでに見てきたものすべてを組織する仕方が大学にほかならない。すなわち、それらのものを見て、さらにそれら相互の間の有機的結合が理解されたときに初めて彼は大学を見たということになるのである。彼の誤りは、クライスト・チャーチ、ボードリアン図書館、アシュモレー博物館、そして大学というように並列的に語ることができると考えた点にある。

この一節は、「カテゴリー錯誤」という問題を説明するために使われている事例だが、こうした錯誤が起きやすいということ自体が、「大学」の複雑さであり、面白さなのだ。たしかに、私たちは、「大学」をめぐる日頃のやりとりのなかで、「カテゴリー錯誤」に陥っているのかもしれない。だからこそ、「大学」をつくるという課題を目の前にすると、何を考えればいいのか、さまざまな「資産」への接点をどのように獲得すればいいのか、あれこれと頭を悩ませるのである。

ライルの一節にあるように、「大学」は、さまざまな要素を「組織する仕方」だという点に、あらためて光を当ててみよう。つまり「大学」は、さまざまな要素の〈関係性の集合〉ともいうべきものだ。そう考えると、あらためて、前述のABCDアプローチの有用性にも気づくだろう。「個人の属性・能力」「地域における集まり」「地域の施設・組織」など、じつに多くの〈モノ・コト〉が、「大学」を理解するための素材になりうるのだ。重要なのは、私たちが「三宅島大学」について語る際に、どのような関係性に着目するかという点だ。

すでに述べたとおり、「三宅島大学」プロジェクトは、さまざまな「講座・行事」を提供しながら三宅島の潜在的な「資産」を発掘し、可視化する活動であった。もちろん、三宅島の雄々しい自然は、そのままでも、すでに「資産」としての価値がある。だが、多様な「資産」のあたらしい組み合わせやつながりを考えることで、三宅島の個性をさらに際立たせることができるはずだ。

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表1は、前述のABCDアプローチの流儀にしたがって、「個人の属性・能力」「地域における集まり」「地域の施設・組織」という3つの観点から、三宅島の(潜在的な)「資産」をリストアップしたものである。ただし、これらの3つの分類設定が、相互に排他的ではなく、重複しうるという点には注意が必要である。また、この内容は網羅的ではなく、私たちが「三宅島大学」プロジェクトをすすめる過程で、逐次更新されてきたものである。以下では、3つの観点について、簡単に概観しておこう。

まず「個人の属性・能力」として考えておくべきなのは、私たちが一般的に「アクター」と呼んでいる(プロジェクトへの)参加者・関与者たちである。「三宅島大学」の場合、とくに交流やコミュニケーションを重視しているので、島内の人びとのみならず、島外から訪れる人びとも参加者・関与者として位置づけておくことが重要だった。「三宅島大学」の成り立ちについて説明をする際、これが誰のためのプロジェクトなのかを問われることが多かった。「大学」は、島内外を問わず、表1に記載されている多様な属性や能力をもつ人びとが、出会うための仕組みとして理解することができる。島内の人どうしであっても、生活リズムや日常の行動範囲がちがうために、一緒に活動する機会がない場合も少なくない。「大学」は、隣人との出会いや再会を実現する場所でもある。

「地域における集まり」は、「大学」のカレンダーを設計するうえで重要である。言うまでもなく、「大学」は講座のための時間・空間だけで成り立つものではなく、学ぶ人・教える人の日常生活とともにある。そのため、「三宅島大学」の学事日程と、地域のイベントとの連携は欠かすことができなかった。実際には、「大学」の講座と、島の定例イベントとの連携は必ずしも円滑にすすんだとは言えない。たとえば2012・2013年度に実施した「キッズリサーチ」は、島のこどもたちのために提供するプログラムだった。村からの提案で企画・実践したにもかかわらず、小・中学校の学事日程と、「大学」の学事日程との調整が行われていなかった。そのため、実際にプログラムが動き出しても、「キッズリサーチ」への参加者がなかなか集まらないという結果になってしまった。

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「地域の組織・施設」は、「大学」としてプロジェクトを運営するためには、とくに重要であった。たとえば「ネイチャーウォーク」のように、三宅島の自然を活かして行われる講座もあるが、やはり拠点をもつことで、「大学」としての機能は強化される。2012年度からは「三宅島大学 本校舎(御蔵島会館)」の運用がはじまり、プログラム運営の利便性が向上するとともに、「大学」そのものの認知度も高まったようだ。また、船の往来によって、島のリズムが刻まれていることをふまえると、船客待合所は、定期的に人が集まる場所として利用度の高い施設だと考えられる。さらに、たとえば竹芝客船ターミナルも、三宅島との行き来に利用する施設であるため、「三宅島大学」のエクステンションとして位置づけることができる。地域の「資産」としての組織や施設を考えるときには、その地域に限定することなく、行路(航路)や、他の地域に拠点をもつ関係組織・施設へと視野を広げることも重要だろう。

(つづく)

「三宅島大学」をふり返る(3)

拠点の重要性

 『アートプロジェクト:芸術と共創する社会』(2014)の冒頭に、「アートプロジェクトとは」というページがある。たとえば、「制作のプロセスを重視し、積極的に開示」すること、「プロジェクトが実施される場やその社会的状況に応じた活動を行う、社会的な文脈としてのサイト・スペシフィック」であることなどが、1990年代以降に展開されてきた「アートプロジェクト」の特徴として挙げられている。

すでに述べたとおり、「三宅島大学」は「調査・研究」「講座・行事」「環境・設備」という3つの活動領域によって構成されていた。「アートプロジェクト」という方法で、将来的に三宅島の「資産」としての価値を生み出しうる、さまざまな「資源」について探究する試みであった。島全体が「大学」に見立てられていたものの、現実的にも象徴的にも「校舎」の存在は重要である。現場の文脈を考えながら、積極的にプロセスをオープンにする(オープンにし続ける)ための「場所」が必要だった。

「三宅島大学」の前身である「墨東大学(ぼくとうだいがく)」も、ささやかながら拠点を持っていた。墨田区京島のキラキラ橘商店街にある空き店舗が、「墨東大学 京島校舎」と呼ばれ、さまざまな講座のための教室として、さらには卒業式や卒業制作展のための会場として利用された。「プロセスを重視する」ということでは、引っ越しや壁のペンキ塗りといった拠点整備の活動自体も、「講座」として提供した。

「三宅島大学」プロジェクトでは、最初の数回は民宿を利用した。私たちも不勉強だったのだが、島のリズムは、船の往来と密接に連動している。明け方5時に船が着き、午後2時に船が出る。これが基本になって、島の活動が組み立てられている。「島時間」ということばから連想しがちな、のびやかな時間感覚というよりは、むしろ規則的だと言ったほうがいい。私たちが常識的だと思っている時間の使い方は、通用しない。私たちは、つい宵っ張りな過ごし方を求めてしまうのだが、早寝早起きが基本だ。その理解不足で、民宿にはいささか迷惑なふるまいをしてしまった。

いずれにせよ、「三宅島大学」の拠点として、民宿を使い続けるわけにはいかない。数回のリサーチを経た後、伊豆地区にある「伊豆避難施設」を利用できるよう調整が行われ、初年度(2011年度)は、この避難施設が「三宅島大学」の活動拠点となった。「避難施設」であるから、民宿よりも柔軟に使うことができる。ただ、実際に講座や行事は、「アカコッコ館(三宅島自然ふれあいセンター)」や「三宅村公民館」など、他の会場を利用する必要があり、そのつど「三宅島大学」の事務局機能も移動することになった。

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三宅島大学 本校舎(左:2012年8月 右:2013年8月)

2年目(2012年度)からは、阿古地区にある「御蔵島会館」を「三宅島大学 本校舎」として活用できるようになった。錆が浜港から徒歩5分程度という好立地で、近所には観光協会や商店もある。くわえて、村役場へのアクセスも良い。宿泊や自炊のための設備は、私たちの滞在中の自由度を格段に高めてくれた。広間には天井まで届く黒板が設置され、教室らしい雰囲気になった。「三宅島大学」と書かれた看板ができて、ようやく「居場所」ができた。少しずつではあったが、「本校舎」を拠点に「三宅島大学」における活動のスタイルがつくられていった。

 

コミュニケーションが「場所」をつくる

「三宅島大学」をひとつの生態系として考えるとするならば、それを構成するのは教室や校舎といった有形のモノだけではない。言うまでもなく、さまざまな無形のコトも有機的に結びつくことによって「全体」がかたどられていく。「三宅島大学」プロジェクトにとって重要なのは、空間としての拠点ができたことだけではなく、「マネージャー」が常駐するようになったという点である。たとえば教室という空間は、コミュニケーションをとおして息づく。人びとが集い、自由闊達に語らうことによって、「居心地のいい場所(グッド・プレイス)」ができる。

2012年の夏以降、「三宅島大学 本校舎」に「マネージャー」が暮らすようになり、(大学をめぐる)生態系は、広がりを持ちはじめるとともに、安定していった。「マネージャー」は、村役場との調整をしながら講座や行事の運営をサポートする「事務局」であり、逗留するアーティストや関係者を迎える「おかみさん」であり、同時に村の人びとに「三宅島大学」の活動内容を伝える「広報担当」のような存在であった。

「三宅島大学」を構想した際に整理したコンセプトのひとつが、「コミュニケーションを誘発するしくみ」としての「三宅島大学」というものであった。これは、「アートプロジェクト」の評価にもかかわるが、私たちは、「三宅島大学」の意味や意義は、人びとのコミュニケーションに表れるという考えに依拠しながら「全体」をデザインした。人びとの日常会話のなかに、「三宅島大学」や大学生活にかかわることばが表れるときにこそ、「三宅島大学」の存在が認知されたと考えることができるからだ。

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2011年の「開校式」以降、さまざまな場面で、「三宅島大学」が(内容の詳細はともかく、その名前程度は)、村の人びとに知られているということがわかった。とくに2012年夏に実施した「キッズリサーチ」をとおして、子供たちのコミュニケーションのなかに「三宅島大学」の存在を実感することができた。当初は、「三宅島大学」を略して「三宅大(みやけだい)」という呼称が流通するのではないかと期待していたが、子供たちは、「三大(さんだい)」と口にするようになった。また、子供たちは何気なく「大学に行ってくる…」と言って家を出ていたと聞く。

「キッズリサーチ」に参加していた子供たちにとって、「三宅島大学」が「本物」であるかどうかは、問題ではない。コミュニケーションを誘発するしくみとして、その本質が「真正」であるということが大切だ。「三宅島大学 本校舎」は、プロジェクトのためにあたえられた呼称だったが、「大学」として語り、足をはこぶことで、子供たちも「アートプロジェクト」の参与者になっていたのである。

(つづく)

「三宅島大学」をふり返る(2)

ニーズ主導から、可能性志向へ

「アートプロジェクト」や「地域活性化」というテーマに取り組む際、少なくとも二つのアプローチを考えることができる。まず、私たちに比較的なじみ深いのは、地域における諸問題を同定し、それに対する解決方法を探るというアプローチだ。たとえば図1のように、地域をめぐる問題状況のマッピングが行われ、対処方法や優先順位の検討、さらにはコストの試算・配分等についての議論がすすめられる。図は、例示のために簡略化してあるが、問題状況は、その規模や緊急性、抽象度に応じて分類される。「アートプロジェクト」は、たとえば少子高齢化、生涯学習、“シャッター商店街”、コミュニティの喪失など、私たちが日頃マスメディア等で目にする「地域活性化」に関わる問題や課題とともに語られることが多くなった。このアプローチは、「問題(課題)ありき」でスタートするので、「アートプロジェクト」は、これらの「問題(課題)」の理解や、解決のための方法として位置づけられることになる。

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図1:ニーズにもとづいた問題状況のマッピング Kretzmannほか(1993)を元に作成 [註1]

Kretzmannらは、こうした“ニーズ主導(needs-driven)”とも呼ぶべきアプローチ自体が、問題状況に向き合う当事者たちを、必要以上に「クライアント化」する可能性があると指摘する。ひとたび地域コミュニティにおける「問題(課題)」が提示され共有されると、当該の「問題(課題)」にかかわるアクターやその役割関係が固定的になりがちだからである。また、地域に固有の問題でありながら、不特定多数の人びとを「受け手」に想定した記述、報道がなされると、問題状況そのものが、あたかも「他人事」であるかのように対象化されることになる。

近年、アメリカ、オーストラリアを中心に、Asset-Based Community Developmentアプローチ(以下ABCDアプローチ)の実践が拡がりつつある。同アプローチは、地域におけるニーズを発掘し、それに対して 「問題解決」を試みるという“ニーズ主導”の発想ではなく、まずは地域のもつ「資産」を熟知し、その潜在的な可能性を模索するものである。 つまり、“可能性志向(capacity-focused)”という立場から、地域に偏在する多様な「資産」の理解を試みることになる。ABCDアプローチでは、ことなる発想でマッピングを行う。図2のように、地域コミュニティが保有する「資産」を、個人の属性・能力、地域における集まり、地域の組織・施設から構成されるものとして位置づけ、地域の「強み」(潜在的な可能性)を可視化しようと試みるのである。

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図2:ABCDアプローチによる地域資産のマッピング Kretzmannほか(1993)を元に作成 [註2]

たとえば、地域の組織・施設のひとつであるコミュニティ・カレッジは、次のような側面から「資産」としての価値をもつと評価することができる(註3)。

  1. 教員・スタッフ:高度な専門知識・技能をもつ人財の集まりとして、地域コミュニティへの貢献が期待できる。新規科目の提案や学生たちのボランタリーな参画など、双方向の交流へとつながる可能性がある。
  2. 空間・施設:さまざまな集まりのための物理的な空間を供与できる。たとえば稼働率の低い時間帯は「外部」の活動主体に開放する。屋内スペースのみならず、屋外の駐車場やスポーツ施設、キャンパス内のランドスケープ(公園としての機能を果たす)も地域資産としての価値を発揮しうるだろう。
  3. 機材・備品:施設面のみならず、コミュニティ・カレッジが備えるさまざまな学習のための環境も役立つ。コンピューターをはじめ、AV機器、工作機械、書籍などは地域コミュニティに開放され有用に活用されうる資産価値を備えている。
  4. ノウハウ:当然のことながら、コミュニティ・カレッジ内で提供されている講座や実習は、地域に直接的に役立ちうる知識・知恵の集積として理解することができる。
  5. 経済的貢献:また、直接的には雇用機会の創出という形で地域コミュニティに貢献しうる。

ABCDアプローチでは、このようにさまざまな観点から「資産」をマッピングした上で、地域コミュニティにおける潜在的なパートナーを考え、そのパートナーとの紐帯を強化するための方法・方策を検討する。そして、最終的には個別具体的なアクションへと結びつける。「三宅島大学」は、このABCDアプローチの考え方を参考にしながら構想した。開校時(2011年9月)には、「調査・研究」「講座・行事」「環境・設備」という、相互に関連する3つの活動領域とともに実装された。

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出典:三宅島大学オフィシャルサイト http://miyakejima-university.jp/structure

  • 調査・研究:三宅島の地域資源を再発見・再評価し、その潜在的な可能性を模索し、発信する。
  • 講座・行事:地域コミュニティ内外の多様な人々の出会いや交流、コミュニケーションを誘発する。
  • 環境・設備:交流拠点の整備、情報発信ツールの開発、人材の育成などをおこなう。

私たちは、それぞれの領域における活動をとおして、三宅島の潜在的な可能性(キャパシティ)を理解しようと試みた。「三宅島大学」という「アートプロジェクト」は、そもそも探索的・構成的な活動としてデザインされていた。その意味で、「三宅島大学」プロジェクトは、(あらかじめ可視化されていた)「問題(課題)」を解くことよりも、(まだ見たことのない)「潜在的な可能性」を発見することを志向していたと言えるだろう。

(つづく)

 

参考

  • 加藤文俊(2011)メタファーとしての〈大学〉:地域資産を評価するコミュニケーションのデザイン『地域活性研究』第2号(pp. 17-24)
  • Kretzmann, J. and McKnight, J. (1993)Building communities from the inside out: A path toward finding and mobilizing a community’s assets. Skokie: ACTA Publications.

註1:Kretzmannらによる記述はアメリカにおける事情を前提としているため、訳出する際に日本の文脈に合わせて加筆・修正した。ここで重要なのは、記載されているキーワード自体ではなく、問題状況のスケールや抽象度に応じてニーズにもとづくマッピングが行われるという点である。

註2:地域における「資産」に着目する発想においても、日本の文脈に応じて、適宜改訂しながら訳出した。たとえば海外諸国における文脈では、エスニック・グループによる集い、教会等での集いなど、地域コミュニティにおける集まりにはいくつものバリエーションがある。また、図ではスペースの都合で割愛したが、Kretzmannらのマッピングでは、障がい者をはじめとする社会的参画が難しいと理解されがちな人びと(labeled people)の属性・能力も記載されている。文中の図は、網羅的なものではなく、いくつかのスケールで地域における「資産」を列挙する事例として用いている。

註3:コミュニティ・カレッジはアメリカの公立/州立の2年生大学であり、日本の文脈にはややなじみにくい。地域コミュニティの住民に高等教育を提供する組織・施設として理解すれば、類似の機能を果たす(果たすべき)存在として本論のストーリーに位置づけることができるはずである。

「三宅島大学」をふり返る(1)

島の誘惑

「島に行きませんか?」というひと言で、プロジェクトが動きはじめた。東京都文化発信プロジェクト(以下文プロ)の森司さんから電話があったとき、どの島なのかを確かめることもなく「はい」と返事をしていた。他の参加者も、同じように「島に行きませんか?」というひと言が、かかわるきっかけになったようだ。島は、それほどに魅惑的である。その魅惑は、おそらくは、行ったことがない「未知」の場所であるということ、そして、多くの人が想い浮かべるであろう「青い空、青い海」というイメージによるものだ。だが同時に、「未知」の島は、畏れるべき場所でもある。日本全国を見渡せば、人口規模も面積も同じくらいの村は、他にいくつもあるはずだが、周りを大海原に囲まれた島への行路は、期待ばかりでなく、不安も抱かせる。

「三宅島大学」の成り立ちや具体的な実践について紹介は別の項に譲るが、プロジェクトとしては、わずか3年間(20112013年度)で終了した。すべてが順調だったわけではないし、思うように行かないこともたくさんあった。いまだに判然としないことも少なくない。だが、幸いにも「三宅島大学」が閉校してから、さらにもう1年、ふり返るための時間をいただいた。こうした事業は、年度末になって(やや慌ただしく)「報告書」をまとめ、それで「終わり」になることが多い。ひととおり成果をまとめると、その反動で開放された気持ちになって、ゆっくりと活動を反芻して、意味づけをおこなうことはあまりない。あたらしいプロジェクトがはじまると、不思議なほど簡単に熱が冷めてしまうのだ。地域コミュニティに根づくことを目指しているプロジェクトであっても、年度の節目や資金面での方針変更によって、いとも簡単に土壌が一新される。

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この1年は、島に出かける機会がなくなり、ある種の「欠乏感」とともに過ごした。「三宅島大学」での活動を経て、私の日常のリズムに、島にいる時間が少しずつ刻まれるようになっていたことを再確認した。だが、その「欠乏感」のおかげで、少し距離をおいて「三宅島大学」プロジェクトそのものについて考えることができるようになった。また、伊豆諸島(あるいはもう少し限定して、伊豆七島)には、いくつもの島があるにもかかわらず、「三宅島大学」の開校期間中に、他の島を訪れることはなかった。森さんの勧めもあって、20147月には、八丈島や大島を巡る旅をした。大急ぎではあったものの、他の島をじぶんの目で見ることによって、三宅島を相対化して語るためのヒントを得たと思う。

ふだんよりも時間をかけてふり返ること。そして、他の島々をふくめたもう少し広い範囲で位置づけてみること。「三宅島大学誌」プロジェクトは、3年間の実践をもう一度とらえなおし、「三宅島大学」とは何だったのか、さらに広い文脈で「アートプロジェクト」という活動そのものについて考える試みである。

 

「アートプロジェクト」という方法

「三宅島大学」は、三宅島大学プロジェクト実行委員会と東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)の共催のもと、「東京アートポイント計画」(東京文化発信プロジェクト室における拠点形成事業)のアートプロジェクトとして展開した。

近年、アートプロジェクトによる地域活性化の試みが、注目を集めるようになった。もちろん、試みとしてはしばらく前からあったが、とくにここ数年は際立っているようだ。まさに「地域創生」という文脈で語られることも少なくないはずだ。たしかに「アートプロジェクトによる地域活性化」という響きも魅惑的だが、このことばは、その意味するところをよく考えて慎重につかいたい。「アートプロジェクト」も「地域活性化」も、日常的につかわれることばになりつつある。そして、その日常性こそが、情報共有やコミュニケーションを難しくしているのだ。さまざまな形で「アートプロジェクト」や「地域活性化」が理解され、語られているということに着目するためには、コミュニケーション論からのアプローチが有用である。「アートプロジェクト」や「地域活性化」の評価に関わる問題は、私たちのコミュニケーション観に照らして考えることができるからである。

コミュニケーション論においては、送り手から受け手へのメッセージの「伝達」としてコミュニケーションを理解しようと試みることが多い。その場合、私たちのコミュニケーションは、メッセージが「伝達されたかどうか」という「成果(結果)」で評価されることになる。いっぽう、コミュニケーションという絶え間ない過程に着目するならば、「意味づけ」という側面が際立つ。まさに、〈そのとき・その場〉の状況を熟知しようという試みこそが、コミュニケーションの本質だという考え方である。

「アートプロジェクト」や「地域活性化」は、その過程が大切だと言われながらも、(最終的には)わかりやすい「成果(結果)」で評価されることが少なくない。あえて単純化するならば、「アートプロジェクト」という方法が、「地域活性化」という「成果(結果)」をもたらすかどうかという議論である。本論は、「意味づけ」の過程としてコミュニケーションを理解する立場から、「アートプロジェクト」や「地域活性化」をめぐる議論を整理したいと考えている。人と出会い、かかわり合いながらつくられる場所での体験は、つねに個別的で、私たちの身体や現場に消えゆく性質のものである。その一つひとつのエピソードの具体性に向き合いながら、「三宅島大学」というプロジェクトの輪郭を描いてみたい。

「三宅島大学誌」プロジェクトでは、着想・準備から開校、実践を経て閉校にいたるまでの過程を記述することを重視している。その一環で、3年間の記録を集約する「デジタルアーカイブ」をつくる作業も進行中である。まずは、写真や動画、文書などもふくめ、プロジェクトがすすむ過程で生み出されたさまざまな記録を収集・蓄積している。なかには、デジタル技術のおかげで不可避的に残されていく記録もある。こうした多様なデータにキーワードを付与し(タグ付けし)、検索や分類、並べ替えなどが容易な仕組みをつくろうとしている。いうまでもなく、こうした記録を束ねた「アーカイブ(=所蔵庫)」としての役割は無視できない。だが、データの格納を終えても、この「所蔵庫」の扉を開けておくつもりで「アーカイブ」そのものを整備している。日常的にこの記録の束にアクセスし、「三宅島大学」についてのコミュニケーションが、ささやかながらも継続していくための方法や、私たちの態度について考えることが重要だと理解しているからである。

(つづく)

三宅島を知る

三宅島大学」の開校に向けて

リサーチ02|2011年8月6日(土)〜9日(火)

 

いま「三宅島大学誌」プロジェクト(2014年度)の一環として、3年間のふり返りをはじめている。前回の記事(「はじめての三宅島」)のなかで「…17回島に渡った。」と書いたが、その後、16回であることがわかった。そして、そのなかに今年の夏に実施した「三島(さんとう)リサーチ」がふくまれているので、「三宅島大学」プロジェクトの期間中(〜2013年3月)には、15回島に渡った…というのが正しいようだ(今後も、必要に応じて修正)。

2回目のリサーチは、三宅島で2年に一度おこなわれる「富賀神社大祭」の日程に合わせて計画された。今回は、このお祭りを見るだけではなく、「三宅島大学」の開校に向けて、会場等の下見(ロケハン)をおこなうことになっていた。

7日:まずは、開校式の会場候補となっている錆が浜港の船客待合所(船待ち:せんまち)の界隈を下見した。船待ちの脇にある駐車場は、上手に設営すれば、海を背にしながら開校式を開くことができる(きっと「絵になる」はずだ)。また、キックオフ・レクチャーは、船待ちの建物がよいだろうという話になった(くわえて、雨天のことも話題になっていたと記憶している)。まだまだ決めるべきことはたくさんあったが、実際に現場を見ながら想像すると、少しずつ「三宅島大学」が現実的になっていくような感じがした。6月のリサーチは梅雨空だったが、今回は快晴。まだ見ていなかった、三宅島の空と海に気分が高揚した。

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そのあとは、「富賀神社大祭」を見に行った。「富賀神社大祭」は、1週間ほどかけて島の5つの地区を(阿古、伊ヶ谷、伊豆、神着、坪田という順で時計回りに)神輿が巡回していくというものだ。地区と地区のあいだで、神輿が受け渡される場面が見どころで、それぞれの地区の人びとの気性や、「お隣り」の地区との関係が表れるようだ。この日(おそらく4日目)は、伊豆から神着への受け渡しの場面を見ることができた。受け渡されると、神輿は翌朝まで御旅所でひと休み。そしてまた、次の受け渡しの場所まではこばれる。

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8日:翌日は役場のそばの体育館(雨天の際の会場候補)を下見してから、神着から坪田への受け渡しを見に行った。きょうもよく晴れて、暑い。島の歴史や文化に触れるという意味で、「富賀神社大祭」はとても興味ぶかいものだった。

観光客や(お祭りに合わせて)里帰りをしていた人もいたとは思うが、沿道は賑やかだった。昔に比べると「…ずいぶんおとなしくなった」と沿道にいたお年寄りが口にしていた。島の人口がいまよりも多かった時代には、もっともっと華やかな祭事だったのかもしれない。2000年の噴火(そして全島避難)をはさんで、三宅島の人口は、この30年間でおよそ3分の2に減少している(1985年:4167人 → 2014年推計:2575人)。

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9日:最終日には船を仕立てて、海から三宅島を眺めてみることになった。前回は、島内の外周道路をバスで一周し、三宅島が山手線とほぼ同じサイズだということを体感した。こんどは、もうひと周り外側から、島を見るということだ。錆が浜の漁港から船に乗り、神輿と同じように、時計回りで島の外周を巡った。島の外周道路(都道212号線)の、さらに外側にも道があり、家(いま人が住んでいるかどうかはわからない)もちらほら見えた。5つの集落のサイズや地形も、海側から見ることで、はじめて気づくことがたくさんあった。ところどころにこげ茶色の岩肌が露出し、「火山の島」としての成り立ちを感じることができた。

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前回は、藝大チームのメンバーとともに島に散らばり、さまざまな「地域資源」をさがすというアプローチ方法だったので、「調査者」としての側面が際立った。2度目の三宅島では、さらに島のことを理解するとともに、「三宅島大学」の仕組みを設計するための手がかりをさがすことが求められていた。実際に、今回は「デザイナー」のチームも一緒だった。このあと、開校式(この時点で、開校式は9月19日に決まっていた)に向けて、「三宅島大学」のキービジュアルが決まり、パンフレットやウェブがつくられることになる。

慌ただしかったが、少しずつ、三宅島の姿がかたどられてきた。今回も、(前回と同様)「視察」の感覚が強かったように思う。お祭りの見物も、一連のロケハンも、ずっと役場の担当者(当時)と一緒だった。のちに、もう少しくわしく書くことになると思うが、このときは、まだ活動の拠点がなかった。民宿に泊まり、役場の手配で移動する。もちろん、地域での活動は、そうやってはじまることが多い。適切な「入口」が必要だし、焦らずにすすめたほうがいい。だが、人との関わりをつくっていくためには、ぼくたちの「自立」が必要だった。