三宅島大学誌

2011〜2013年度にかけて実施した「三宅島大学」プロジェクトをふり返ります。

もう一度

このサイトに最後に投稿したのが2015年の3月なので、あれから、すでに5年半近くになる。その間、時代は平成から令和へ。ストリートビューで訪ねてみたら、あの校舎は、2013年の夏のまま。時間が止まっていた。

春から、新型コロナウイルスのことで落ち着かない日々が続いている。“自粛生活”をしているうちに、ゴールデンウィークが終わった。そして6月の末、メッセージが届いた。「三宅島大学」について話を聞きたいとのこと。ぼくは、オンラインで「会う」約束をした。

「三宅島大学」は、「東京アートポイント計画」*1の一環として実施したプロジェクトである。「大学」という名前はついているが、学校教育法に定められた正規の「大学」ではない。「島でまなび、島でおしえ、島をかんがえる。」という理念のもと、島全体を「大学」に見立てて、さまざまな学習プログラムを束ねる試みだ。ぼくは、全体のコンセプトづくりにかかわるとともに、学生たちと一緒にたびたび島に通うことになった(ぼくは、いちおう「三宅島大学」の“副学長”だった)。2011年9月に開校し、2014年3月の閉校までに100近い講座が開かれた。
2014年4月からの1年間は、「三宅島大学誌」プロジェクトと称して、3年間の活動をふり返った。このサイトは、その間にアイデアを整理したり進捗を報告したりするために開設したものだ。

メッセージの送り主は、三宅島でゲストハウスを営んでいる伊藤さんだった。島を想い、島で「学び」のプログラムを構想しているという(聞けば、それは三宅島にかぎることなく、島どうしを結んで展開してゆくというアイデアだった)。これまでに島で企画・実施された事業をあれこれと調べているなかで、「三宅島大学」を目にしたとのことだ。一気に、7、8年前の夏へと引き戻される。

f:id:who-me:20140308160451j:plain2014年3月8日

(もともとそう決まってはいたが)「三宅島大学」は、3年間で閉じることになった。ふり返ってみると「ああすればよかった」と、思うことがたくさんある。期待どおりにいかなかったこともある。そのちょっとした“不完全燃焼”のような想いは、このブログや『三宅島大学誌』に綴った。でも、時間を巻き戻すことなどできない。そもそも、「三宅島大学」のようなプロジェクトにかぎることなく、フィールドワークもインタビューも、一つひとつの出会いの場面は一度きりだ。だからこそ、いろいろなことに向き合いながらも、続けることが大切なのだろう。
「三宅島大学」は、もはや、10年近く前の事業になってしまったが、偶然にも見つけてもらうことができた。画面越しに、あのころのエピソードを話していたら、あっという間に時間が過ぎた。伊藤さんは、ぼく(ぼくたち)が抱えていたスッキリしない感情も、なんとなく察してくれたようだ。

2014年の3月9日は、「三宅島大学」の卒業式と閉校式だった。最後の「儀式」として、「三宅島大学」の看板を取り外した。二つあった看板のうち、一つは島に残り、もう一つは大学に送ってもらった。あれからずっと、ぼくの研究室のドアの前に置いてある。

伊藤さんと話をしながら、ぼくの頭のなかは、先走っていた。もう一度、あの看板を提げる日が来るかもしれない。そんなことを勝手に妄想していた。とくにいまは、自由に「外」に出かけることができない。そんな窮屈な毎日を送っているから、なおさらのこと、船旅に思いをはせた。初めて三宅島を訪れたときの、あの不思議な気持ちがよみがえってくる。

いつも、日ごろの活動については、できるだけ記録を残しておくように心がけている。伊藤さんからメッセージが届いたのは、「三宅島大学」についての記録があったからだ(残念なことに一部は、散逸してしまった)。ぼくたちは、記録を残す。そして、記録がふたたびプロジェクトを息づかせる。看板を提げて、もう一度「三宅島大学」を開校するのは、それほど簡単なことではないだろう。まだ、どうなるのか、はっきりしたことはわからない。だが、あたらしい出会いがあったことはたしかだ。そして、そのおかげで、家にいることを強いられながらも、ちょっと気分が上向きになったのだ。

38ku.yaboten.net

*1:「東京アートポイント計画」は、東京の様々な人・まち・活動をアートで結ぶことで、東京の多様な魅力を地域・市民の参画により創造・発信することを目指し、「東京都文化発信プログラム」の一環として東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団が展開している事業。※「東京文化発信プロジェクト室」は、2015年4月1日より「アーツカウンシル東京」と事業統合。

ピリオド(謝辞)

 『三宅島大学誌:「三宅島大学」とは何だったのか」|2015年3月20日発行

無事に『三宅島大学誌』が完成した。書籍であれば、最後にのんびりと「謝辞」を書くのだが、『三宅島大学誌』は「報告書」だ。なにより、当初の予定よりも20ページ増えて、紙幅にも余裕がなくなってしまったので、ここに、いまの気持ちを書いておきたい。

三宅島には何度も出かけたが、一度も飛行機には乗らなかった。最初は戸惑いながらも、やがて、船にゆられる6時間半がとても大切に思えるようになったのだ。船で過ごす時間は、心と身体を整えるための時間になる。同行するメンバーたちと、デッキでたくさん話をした。東京文化発信プロジェクト室(以下文プロ)の森さんと話をする時間も、たっぷりあった。もともと「アートプロジェクト」と呼ばれる活動には、先入観も偏見もあって、少しばかり警戒しながらかかわっていたのだが、だんだんと、ぼくなりに理解がすすんだ。

「アートプロジェクト」にかぎらず、大事なのは「人」である。そして、当然のことながら、一人ひとりが無関係でいられるものではない。だから、「座組(ざぐみ)」が肝心なのだ。3年間、船で行き来するあいだ、ぼくは「座組」について考えることが多かった。船にゆられながら、「アートプロジェクト」と、(ぼくが志向する)フィールドワークの方法がとても似ていることを実感した。最悪の事態に備えて、最低でも平均点をこえられるようなヘッジも必要だ。だが、「安全」ばかりを求めていたら、つまらない。個性がぶつかり合うことによって、「何か」が生まれる(かもしれない)ことに賭ける。

つまり、「アートプロジェクト」は冒険なのだ。「島に行きませんか?」という、森さんのひと言は、冒険へのお誘いだった。文字どおり、「同じ船」に乗って(in the same boat!?)、未知の「世界」へと向かう、その道行きに加わった。あらためて、「三宅島大学」にかかわるチャンスをいただけたことに感謝したい。そして、2014年度は「三宅島大学誌」を編纂するというプロジェクトがはじまった。2011〜2013年度にかけて実施されたプロジェクトがいったん終わってから、さらに一年かけて、ふり返りとまとめをするというものだ。このふり返りのやり方は、船にゆられて帰るのに似ている。年度末にどたばたと「報告書」をまとめるのではなく、いつもよりもゆったりとしたペースで経験を反芻する。とても贅沢なやり方だった。この一連のプロセスは、文プロの芦部さん、吉田さんが、いつも見守ってくれていた。

また、今回は卒業生たちとともにまとめの作業をできたことを、とても嬉しく思う。はじめて三宅島に行くとき一緒だった面々に声をかけたら、快く引き受けてくれた。とりわけ、奥ちゃん(奥麻実子)には、お世話になった。冊子のレイアウトやデザインを…という話だったが、結局は編集も原稿執筆も、いろいろとお願いすることになった。相変わらず仕事は丁寧で、土壇場のパワーは健在だった。ありがとう。

すべての名前をここで挙げることはできないが、じつに多くの人びととのかかわりのなかで、「三宅島大学」と「三宅島大学誌」が動いていた。そして「墨東大学」が、その原点であったとするならば、この5年間分のつながりと広がりへの感謝が必要になる。冊子が納品される前日に、ぼくたちは「打ち上げの練習」をした。あとは、みなさんが手に取って、どのような反応をするかを待つだけだ。ひとまず、ピリオド。もちろん、ピリオドを打つのは「ピリオドの向こう」へ行くためだ。つぎなる冒険は、どこを目指すのか。楽しみでしようがない。

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『三宅島大学誌:「三宅島大学」とは何だったのか(四六判 120ページ)*1

・2015年3月20日発行

・監修:加藤文俊

・デザイン:奥麻実子

・編・著:三宅島大学誌プロジェクト 加藤文俊・奥麻実子・森部綾子・飯田達彦・深澤匠(加藤文俊研究室)|芦部玲奈・吉田武司(東京文化発信プロジェクト室)

・発行:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京文化発信プロジェクト室

*1:『三宅島大学誌』は、「報告書」なので、値段がついて書店にならんでいるものではありません。毎年、この時期に文プロから「箱」が送られてくるひとには、まもなく届くはずです。もちろん、関係者のかたがたには、随時、発送します(可能なら手渡しで)。これからの数か月は、何冊かバッグに入れて出かけるようにするので、もしぼくに会う(予定の)人は、声をかけてください。その他、講義・講演、展示などの機会にも配布できるようにします。